大和三山+1 登頂記
三山と藤原京
680年代前半(正確な年次は諸説有るようです)天武天皇の命で、日本で初めての「都市計画」ともいわれる、中国に倣った本格的な条里制の都・藤原京の造営が開始されました。途中天皇の死などで中断しながらも約10年後の694年遷都が行われました。都がつくられた場所は「大和三山」とよばれている、畝傍(うねび)山、耳成(みみなし)山、天香具(あまのかぐ)山(国土地理院版地図では「天香久山」と表記。)の3峰に囲まれた地域です。広さはおおよそ5km四方、正確に測量された東西南北の道路で整然と区画された都でした。最近の調査結果から、それまで考えられていたよりも更に大規模なものであった可能性の高いことが判明しつつあるようです。710年の平城京遷都まで15年ほどの短命な都でしたが、その理由についてははっきりしていません。
できすぎた偶然 、、、それとも神の成せる技???
畝傍山を頂点にして、耳成山、香具山が見事な二等辺三角形を形作っています。手持ちの地図ソフトで距離を測ってみました。
ただし三山の「格」ということでいうと、香具山だけが「天の」という字句をつけて呼ばれる様に別格と見られていたようです。藤原宮から一番近いこと、また山容が平たく長い面を宮に向けており一番目立つ山だったからでしょうか?
注:標高はいずれも国土地理院1:25,000地形図、平成9、11年版に、距離は「ゼンリン電子地図 Z3」によりました。
- 耳成山〜香久山間が2.4km(底辺)
- 畝傍山〜耳成山3.2km(側辺)
- 畝傍山〜香久山間3.2km(側辺)
ただし三山の「格」ということでいうと、香具山だけが「天の」という字句をつけて呼ばれる様に別格と見られていたようです。藤原宮から一番近いこと、また山容が平たく長い面を宮に向けており一番目立つ山だったからでしょうか?
注:標高はいずれも国土地理院1:25,000地形図、平成9、11年版に、距離は「ゼンリン電子地図 Z3」によりました。
三山は万葉びとの心のよりどころ
藤原京が都であったとき、宮中の人々も、また都に出入りしたすべての庶民達も毎日その姿を眺めていたわけです。古来から山の麓に棲む人々は「山」に対して特別の畏敬の念を感じるものであったようで、身近な山を崇拝の対象とする例は世界のいたるところにみられます。また藤原京に都がおかれていた時代、香久山周辺は貴族達の休日の楽しみの場であったようです。万葉びとたちも三山を畏れつつ、また親しんでいたことは多くの万葉歌が詠まれていることからも容易に想像出来ます。
三山を詠んだ有名な万葉歌、
一方で三山の性別を逆に畝傍山=女性、耳成山、香具山=男性とする説もあるようです。畝傍山にまつわる女児の伝説が根拠かとも思われるのですが、この説に対しては「うねびををしと」の部分を「畝傍雄々しと」と解することで「畝傍山は男性でなくてはならない」という反論もあるようです。
謡曲「三山(みつやま)」は香久山=男性、耳成山・畝傍山=女性 という設定だそうです(参照
http://www.asahi-net.or.jp/~zb5y-wd/mitsuyama.html )が、もしこれが中大兄皇子の歌に因むものとして解釈すると、「主人公(香久山)はすでに愛する女性(耳成)がいながら、更に別の女性(畝傍)を好きになって耳成と争った」ということになってしまいます。それでは「嬬をあらそふ」ではなく「嬬とあらそふ」になってしまいそうな気がします。(苦笑)
ほかにもいくつか解釈があるようですが、私には最初にあげた「通説」が一番自然に感じられ、それ以外のものは、後に天智天皇となる中大兄皇子に「気配り」した解釈のようにも感じられてしまいます。
三山を詠んだ有名な万葉歌、
この歌の解釈は何通りか有るようですが、中大兄皇子が弟大海人皇子(後の天武天皇)の妻であった額田王を権力で奪取したという「三角関係」を「嬬を あらそうらしき」と歌って、自らの行為を「神代より かくにあるらし」と正当化した、とするのが通説であるときいています。『 香久山は 畝火を愛しと 耳成と
相あらそひき神代より かくにあるらし 古昔も
然にあれこそ うつせみも 嬬をあらそふらしき』
中大兄皇子(後の天智天皇)の万葉歌、畝傍山頂案内板(森林管理事務所作成)より。
一方で三山の性別を逆に畝傍山=女性、耳成山、香具山=男性とする説もあるようです。畝傍山にまつわる女児の伝説が根拠かとも思われるのですが、この説に対しては「うねびををしと」の部分を「畝傍雄々しと」と解することで「畝傍山は男性でなくてはならない」という反論もあるようです。
謡曲「三山(みつやま)」は香久山=男性、耳成山・畝傍山=女性 という設定だそうです(参照
http://www.asahi-net.or.jp/~zb5y-wd/mitsuyama.html )が、もしこれが中大兄皇子の歌に因むものとして解釈すると、「主人公(香久山)はすでに愛する女性(耳成)がいながら、更に別の女性(畝傍)を好きになって耳成と争った」ということになってしまいます。それでは「嬬をあらそふ」ではなく「嬬とあらそふ」になってしまいそうな気がします。(苦笑)
ほかにもいくつか解釈があるようですが、私には最初にあげた「通説」が一番自然に感じられ、それ以外のものは、後に天智天皇となる中大兄皇子に「気配り」した解釈のようにも感じられてしまいます。
甘樫の丘
甘樫の丘は周辺は蘇我氏の支配地で、丘の中腹から焼け跡が発見されたことから、ここに邸宅があり、蘇我氏終焉の地となったということはほぼ間違いがないようです。甘樫の丘は、三山ではありません。標高が同程度で藤原宮からの距離もあまり変わらないのに三山並に扱われないのは、南北に長細い甘樫丘は藤原宮のある北側から見て雷丘(いかずちのおか)の陰になり見えにくいのと、敗軍である蘇我氏の支配地だったことに依るのでしょうか?
ここからは、飛鳥寺をはじめとする飛鳥地方、藤原京跡の一帯が一望できます。北端の豊浦展望台からは3山を同時に見ることが出来ます。
ここからは、飛鳥寺をはじめとする飛鳥地方、藤原京跡の一帯が一望できます。北端の豊浦展望台からは3山を同時に見ることが出来ます。